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坂田雅子監督を迎えて。「わたしの、終わらない旅」上映会

ドキュメンタリー映画、「わたしの、終わらない旅」の上映会が6月2日、Sayonara Nukes Berlinの主催で行われ、ドイツ人、日本人など約60人が参加しました。

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あいさつする坂田雅子監督

映画の概要を紹介します。

2011年の福島第一原発事故後、坂田監督は母、坂田静子さん(故人)が1976年ころから反原発運動を続けていたことの意味に気づきます。そして、兵器と原発の2面性を持つ「核」について、フランス、マーシャル諸島、カザフスタンを巡り、そこで核実験と原発によって翻弄された人々を映し出しました。

映画を見る参加者
映画を見る参加者

フランスでは、日本の使用済核燃料が2950トン処理されたラ・アーグ再処理工場やANDRA(国家放射性廃棄物管理局)周辺で放射線検査をするACRO(放射線モニターNGO)の活動を紹介します。ACROの会長は「ラ・アーグの最大の汚染源はお金だと言われている」と話します。

アメリカの核実験が1946年から58年まで67回行われたマーシャル諸島。そのうち23回はビキニ環礁で行われました。実験のためにビキニを離れなければならなくなった島民は今も帰島できないでいます。1960年後半、アメリカの原子力委員会は「ビキニは安全、帰島できる」と発表し、72年から帰島開始、「何を食べても安全」と伝えられました。その後、多くの人が亡くなり、「これ以上住むのは危険」と再び島を離れなくてはなりませんでした。

1949年から89年まで470回の核実験が行われた旧ソ連、カザフスタン・セミパラチンスク。150万人が影響を受けました。実験場跡地の東に位置するセメイ市の病院ではガンの発症率が高いこと、若い世代の免疫力が落ちていることが指摘されました。実験場跡地、1万8千平方キロメートルの4分の1は除染され、4千平方キロメートルが農地にしても安全といわれています。旧ソ連時代、核開発が行われたクルチャトフ市の市長は「わたしたちは次世代の原発を開発しつつある。原爆と原発は別物なのです。きちんと管理していれば原子力はもっとも環境に優しいのです」と語ります。

1953年、国連総会でアメリカのアイゼンハワー大統領が「原子力の平和利用」についてスピーチをしました。その後、1954年3月1日に第五福竜丸の乗組員たちが水爆ブラボーの実験で被曝しました。日本では原水爆禁止運動が盛り上がりますが、平和利用へのキャンペーンが張られていきました。第五福竜丸の乗組員だった大石又七さんは「ビキニ環礁事件が起きたとき、みんなで勉強し考えていれば日本に54基もの原発はつくられなかったのでは」と問います。フランスの元原発労働者が「それが人を殺すことを知りながら、家で原子力の電気を使うのか」と語った言葉が胸に突き刺さります。ビキニの人たちが島の美しいメロディーに合わせながら歌います。「わたしたちの島と生活は奪われた」。

1995年のもんじゅナトリウム火災事故隠しに対応して、1996年に開催された第2回原子力政策円卓会議には坂田静子さんが市民代表として出席していました。「原子力基本法、つまり国策を見直すべきではないか。国策も誤ることがあります。わたしたちの世代は身をもってこれを経験しました」。

この映画に出てくる核の被害を受けた人たちの姿を通して今の日本、フクシマが見えてきます。

「終わらない」のか「終わらせるのか」はわたしたち市民にかかっているのだと感じさせる映画でした。

上映後は坂田雅子監督への質疑応答もあり、活発な意見が交わされました。かいつまんで以下にご紹介します。

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監督に質問する参加者

-日本の現状、脱原発の現状について

監督:反原発、原発ビジネスなど立場によって言うことが異なり、一人ひとり、掘り下げないとそれぞれ考えていることが見えてこない。

-日本では原発に変わる代替エネルギーは進んでいないのか?

監督:太陽光エネルギー発電も進んでいたが、再生可能エネルギーの制度が変わり、電力会社は再生可能エネルギーの買取義務がなくなったので、高くつく再生可能エネルギーの買い取りを電力会社が避けるようになり、その発展を阻んでいる。(*買取にかかった費用は一般電気料金に上乗せしているので、結局消費者が負担している)

-なぜ、世界で60年間原発が稼動してきたのか?

監督:それこそ自分に問いかけてきたものでこの映画を撮る原動力になった。

-フランスにもドイツのように反原発運動をしている人たちがいるのか?

監督:少数だがいる。少数でもがんばっていることに意味がある。フランスでも再生可能エネルギーが発展することを願っている。

 

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*上映会の際、坂田監督へのカンパ、会場費、Sayonara Nukes Berlinの活動費のため呼びかけた
カンパ(事前、当日)は、合計337,60ユーロでした。ご協力いただいたみなさまにお礼申し上げます。
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今回上映会場となったACUD  http://www.acud.de/
*「わたしの、終わらない旅」DVD版は、amazonなどで購入することができます。

A2-B-C

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ドキュメント映画を観る機会が増えた。おそらくは真実を知るための一番の近道だ。「A2-B-C」は、聞き慣れないタイトル、海外でのフィルムフェスティバルでの受賞のニュースが目に止まり、気になっていた映画だ。ベルリン自由大学日本学科のブレッヒンガー・タルコット教授(Prof.Dr.Blechinger Talcott)が構内で上映会をすると云う招待を受けて、学部関係者に混じって映画を観せていただいた。

このドキュメント映画は甲状腺の検査結果で、A2、すなわち結節および嚢胞が見つかった子どもたちに初めてカメラを向けたものだ。

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無邪気に遊ぶ幼稚園児のあどけない姿が映る。ほとんどの子どもがガラスバッヂを身に着けていた。ガラスバッヂとは、特殊なガラス素材を使用した携帯型線量計で、各自の浴びた放射線を計測する装置である。子どもたちは禁止された遊具を取り囲み、どこが放射線の測定値が高く、危険であるかを指で指し示す。遊ばなければ安全と云うわけではないのに、どうして。また小学校の塀を挟んだ通学路の放射線は、インタビューを受ける母親の腰の位置でおよそ12.42μSv/h、足元ではインタビューの間中、35.37μSvと異常なまでの数値の上昇を見せた(※)。撮影が行われた日は、強風が吹き荒れ、校庭では体育の授業が行われていた。

「頭を切ったかのようなびっくりするぐらいの鼻血、2度倒れ、発疹、白血球のかなりの減少、そして医師から風邪の診断」

ある母親が自分の子どもの体調を語った。風邪で初めて血液検査を受けた上、一度も放射線についての質問をしていないのに、医師から「放射線とは関係ない」と言われたという。

「医大の検査結果では一人は嚢胞なしのA1、もう一人は嚢胞ありのA2」

ある家庭では子どもたちの検査結果に満足できず、近所の個人病院で再検査を行ったところ、2人とも嚢胞が見つかった。これを聞いた他の母親は、同じ病院に再検査を依頼したところ、医大の検査にてA2判定後は再検査はできないと断られたそうだ。この時には、原発事故後に福島県放射線健康リスク管理アドバイザーに就任した山下俊一氏の文書が出回り、他県などでの検査もできなくなっていたと言う。

「怒っていいんです」

不安と怒りが入りまじり、涙を見せる母親たち。
日本では感情を押し殺して表に出さないことが美学とされてきたが、怒るべきは今なのだと語る。

「僕はA2です」

カメラを向けられた小学生たちが口々に自らの検査結果を紹介する。この判定が意味するものは何かという問いに、「白血病になって死ぬ」「癌になって死ぬ」と答える。

こんなことが普通であってたまるかと、ぐっと胸を締め付けられる思いで観ていた。やるせない哀しみと怒りが全身に行き渡り、気付けば嫌な汗をかいていた。

鑑賞後は、監督のイアン氏(Ian Thomas Ash)に質疑応答の時間を設けていただいた。主な質疑内容は以下の通りである。

―福島の汚染区にいるファミリーにはどんなオプションがあるか?
避難する人もあれば、とどまる人もある。30km圏内は居住できず、みな避難しているが、境界線の外30.2kmのところには人も住んでいるし、学校(伊達市)も再開しているという状態。
お年寄りと子どもがいる家族には、とても厳しい選択である。お年寄りはそこにとどまりたいと思うが、子どもがいる場合、とどまることは健康安全上の不安が大きい。家族が離散する状態になったり、離婚率も高くなった。

―日本ではこの作品を見ることができないと聞いたが?
まだ限られているが、9月に日本のフィルム・フェスティバルで上映し、メディア関係者への試写会も行った。

―避難しなければならなくなった家族はいつごろ戻れるのか?
その質問に対する簡単な答えはない。不透明というのが実情。

―福島の母親たちは何を一番求めているのか?
彼女たちが求めているものは、安全や賠償金などではない。一番求めているのは「信頼できる情報」である。信頼できる正確な情報があれば、家族とともに今後どうするかという正しい判断を自分たちで下すことができる。現在の情報は背後で操作されていたりして、信頼できず、その中で身動きが取れなくなっている現状に母親たちは怒っている。一人の母親との出会いからたくさんの母親たちとつながることができ、彼女たちが話し合っている場面を撮影した。声を上げることは勇気のいることだが、彼女たちは、力を合わせてこれからどうしていこうか、という将来を見据えた視点で話し合っていた。カメラの目の前で、女性たちの草の根による活動の輪がまさに生まれた瞬間に立ち会った形になり、感動を覚えた。

―除染作業をしていた人たちはどのようなモチベーションで作業に携わっているのか?
2人の作業員と話すことができた。映画の中に登場した若い作業員は、北海道出身で、勉強を続けたいが経済的に厳しく、その資金を得るため、他よりも報酬の高いこの作業に応募した。確か以前原発で働いていたと言った 作業員は、家族とともに避難したが、汚染地区での作業に毎週通っている。

―今後の活動の予定は?
配給会社を見つけるのが課題。福島の問題を継続して取り組んでいきたい。

―日本で上映した際、日本人の観客、およびメディアではどのような反応・フィードバックがあったか?
フェスティバル会場に足を運んでくるような人たちは、もともとこういう問題に意識の高い人たちなので、関心を持ってもらえたが、多くの日本人は今はインターネットで好きな動画が見れる時代で、わざわざ足を運ぶことがあまりないので把握しづらい。メディア関係者(特に日本在住の外国人ジャーナリスト)を招待しての試写会を行ったが、まだ無名の作品だったので、何か賞を取って認められないと取り上げづらいと言われた。賞を取ることが目的ではないが、賞をいただくことで、この作品に対しての注目が高まり、日本や世界に福島の現状を知らしめることの助けになればいいと思っている。

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質疑も終わりイアン氏に声をかけると、大変気さくな印象で、撮影中に子どもたちが懐く様子が見て取れたのも頷けた。翌日ベルリンで行われたRAINDANCE FILM FESTIVALでの上映の告知は、多くの人々にとって間に合わないと思うので、今後のベルリンでの上映の可能性について話した。イアン氏は、「フィルムフェスティバルの良いところは、色々な映画が混じっているところだと思う。反原発だと限られた人々にしか観てもらえない」という様な事をおっしゃった。

確かにこれが現実だと突きつけられれば、多くの日本人は目や耳をふさぐに違いない。遠く福島での出来事とたかをくくる人もいるかもしれない。でも、たくさんの子どもが、身も心も傷ついて、目に見える血を流している。私はこの現実から目をそらす事は出来ない。福島の子どもたちも、世界中の今を生きる子どもたちと同じ未来を担う子どもたちであると考える。子どもたちはみな平等に、こうした不安を感じ日常を放射能におびやかされる事なく、夢を描いて生きていく権利を持っている。大人たちにそれがどうしてわからない、またはわからないふりができるだろうか。(R)

作品中の17歳の女子高校生の言葉を反芻する。
―みんなが今の現状を忘れている事が大切な問題だと思う―

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※撮影場所と思われる箇所での測定動画

放射線量測定:福島県伊達市立小国小学校2013.1.13測定①: http://youtu.be/xrF7ewCfQrY
放射線量測定:福島県伊達市立小国小学校2013.1.13測定②: http://youtu.be/EcemHMEtbj0
50マイクロシーベルトが出ています。

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イアン・トーマス・アッシュ(Ian Thomas Ash)
公式ウェブサイトhttp://www.documentingian.com/

今後の上映スケジュールhttp://ianthomasash.blogspot.jp/2013/11/on-road-again.html

December 19th PIA Film Festival (Kyoto, Japan)
12月19日 PIA映画祭、京都

December 21st PIA Film Festival (Kobe, Japan)
12月21日 PIA映画祭、神戸

セシウム137:ゴイアニアの悪夢

先日、ベルリンで行われた放射能に関わる映画を扱う「ウラニウム映画祭」に行ってきました。いくつか見た中から、特に興味深かった「セシウム137:ゴイアニアの悪夢」について。cesio137

この映画は1987年にブラジルのゴイアニア市で本当に起きた被曝事故をもとに作られています。私は今回、ドイツ語字幕で見たこの映画を通して初めてこの事故のことを知りました。
ゴイアニアの事故とはどんなものだったのでしょう。小出裕章さんが詳しく書いているので、以下に引用します。

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1987年 9月、ブラジル、ゴヤス州の州都ゴイアニア市で セシウム137(Cs-137)による被曝事故が発生しました。廃院となった民間の放射線治療クリニックに放射線治療装置が放置されたままになっていて、それを廃品回収業者が持ち出し、市内にあるその業者の作業場で分解されたことで事故は発生しました。
2人の若者(22才と19才)が、廃院となった病院から放置されていた治療用セシウム137 照射装置 (50.9TBg (1375Ci))を価値があるものと思い、持ち帰りました。その段階から被曝が始まり、2~3日後から2人は下痢、目まいなどに悩まされ始めました。彼らは1週間後にようやく線源容器に穴を開けることに成功し、今度は放射能汚染が始まりました。2人はこれを別の廃品回収業者に売り払いました。セシウム137は青白く光る粉末(セシウムの塩化物)であったため、暗いガレージの中で光っていました。買い取った廃品回収業者はそれを家の中に運び込み、その後数日にわたって家族、親類、隣人が、これを眺め、手を触れ、体に塗ったりしました。また業者の親戚、隣人が好奇心から自宅に持ち帰ったりしました。その家の娘は綺麗に光る粉を舐めて遊びました。作業に当たった人とその家族全員の体の調子が次第におかしくなり、廃品業者の妻が青白く光る粉に原因があるのではないかと気付き、それをゴイアニア公衆衛生局に届けました。医師は症状から放射線障害の疑いを持ち、市の公衆衛生部と州の環境局に連絡しました。放射線測定器で測定して放射線被曝事故が起こっていることがようやくに明らかになりました。当時、ゴイアニア周辺は雨季のため解体された線源中のセシウム137が溶解し、放射能汚染が広い地域に広がりました。
事故後の9月30日から12月22日までの間に約112,800名の住民の汚染検査が行われ、249名の汚染者が発見されました。120名は衣服、履物のみの汚染、残り129名には体内取込みと体外汚染がありました。0.5グレイ以上約 70人、1グレイ以上 21人、4グレイ以上8人でした。結局、この事故で38歳の女性と6歳の女の子、22歳と18歳の男性の合計4名が亡くなりました。死亡者4名の推定被曝線量は4.5~ 6.0グレイでしたが、7.0グレイを被曝しても生き延びた人もいました。もちろん、JCO事故と同じように、被曝によって加えられたエネルギーによって死んだ人たちの体温はわずか1000分の1度ほどしか上昇しませんでした。
回収できた汚染は一部でしかありませんが、ブラジルの原野に広大な置き場を作って隔離されました。

http://chikyuza.net/n/archives/5043 (図は省略)
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これと似たような事故が2000年にタイでもあったそうで、その際はセシウム137ではなく、コバルト60が原因でした。ちなみに、コバルト60が金属に混じる事故はいろいろなところで起きています。

放射性物質というと、原発や原爆や水爆の影響で出てくる非日常的なものという印象がありますが、医療器具だけでなく、いろいろなところに使われていているそうです。それに気づかずに、もしくはずさんな管理の結果、作業員が被曝したり、気づかないうちに放射能汚染が広まってしまうことがあります。

ゴイアニアの場合も、一般市民の日常生活の中で突如起こった放射能事故です。廃院から機材を持ち出した人たちは、金属をお金に変えたかっただけで、まさか放射性物質が中にはいっているなどとは思いもしなかった、それどころか、放射能がなんであるかすら知りませんでした。

映画を見ていて面白かった(というと語弊があるのですが)のは、セシウム137の存在を全く知らない人たちが、どうやってこの物質と自分や身の回りに起きる異変を理解するかということです。

セシウム137がどれだけ恐ろしいものか分かっている観客は、映画の中で人々がセシウムの入った容器を開けたり、中身を取り出したり、それで遊んだりするという「ありえない」行為に遭遇し、言葉を失ってしまいます。それと同時に、すぐに危険だと分からない放射能のおそろしさを痛感するのです。

セシウム137が暗いところで放つ青白い光は美しく、人々はその不思議な美しさに魅了されます。「おもしろいものがあるから見てみろ」「子供が喜ぶから少し持って行け」。そうやって放射能汚染が広まっていってしまうのですが、危ないものだと知らなければ、全く普通の、なんとも人間らしい言動です。そういえば、マリー・キュリーの伝記で、ラジウムの放つ青い光に感動するシーンがあったよな、とそんなことも思い出しました。鉄くずを売って生計を立てている貧しい人々や子供たちが、見たこともない美しい光に目を輝かせるのは、その後起こる悲劇を予想できるだけに、見ていて切ないです。

この映画を通してよくわかる、もう一つの放射能の恐ろしさは、放射線障害が食あたりや他の病気でも起きうる症状として現れることです。何か悪いものを食べたからだろう、そのうち治るだろう。そう思って、誰もすぐに病院に行こうとしません。そして病院にいっても、(本当の)原因は見つかりません。そうしているうちに放射能の汚染はどんどん広がっていきます。
あの光る物質が来てからどうもおかしい。人々が体調を壊しているのはあれのせいではないか?その因果関係を見つけるまでに時間がかかるのです。そこに気づくと、病院だったところから持ってきたものだということが引っかかり、医療知識のある人が、これは放射能なんじゃなかと疑いだします。

どこからどこまでが放射能による被害なのか。放射線障害は放射能の存在が確認されて、汚染の量が測られてみて初めてわかります。健康被害との関係は、結局のところ推測の域をでません。大量に放射能を浴びても生き延びる人は生き延び、少量でも深刻な被害を受ける人がいます。実際に、この事件でもっとも多く放射線を浴びたであろう鉄くず回収業者の男性は、事故の直後ではなく数年後に亡くなっています。
もし今私の近くで似たような事故が起きて、放射能の影響で吐き気を催しても、私はこの吐き気が放射能によるものだとはまず思わないでしょう。映画の中の人々のように、何か悪いものを食べただろうかと考え、タチの悪い風邪だろうか、しばらくすれば治るんじゃないかと思うことでしょう。
この事故で亡くなったのは4人ということになっていますが、直接の関連性が証明できないだけで、事故の影響で病気になって亡くなった人というのはおそらくもっと多いことでしょう。この映画を作った監督も、この事故の被害者の一人だそうです。後遺症に苦しむ人や、精神的なダメージを負う人がいたであろうことを考えると、たった一つの医療器具の不始末によっておこる事故の恐ろしさは計り知れません。

こうした事故が起こることで、身近なところで使われている放射性物質が確実に管理されるようになると思いたいところですが、すでに書いたように、近年でも事故は起きています。やはり、人間がやることに100%安全なことはないのです。
ずさんな管理の結果だけでなく、こうした危険な物質が意図的に盗まれて悪用される可能性も否定できません。原発は空からの攻撃に無防備だということは知られていますが、身近なところにある放射性物質を使ってテロを起こすということも理論的には可能でしょう。そう考えると・・・怖いですね。

何かおかしいと思ったときにどうするか。ゴイアニアの事故で大事な役割を果たしたのは、廃品回収業者の妻でした。夫や男たちは全く無邪気で、飼っていた小鳥が死のうが、犬が病気になろうが、自分や周りの人々が体調を崩そうが、危機感を感じません。
すべては光る粉のせいではないかと気づき、病院に行き、セシウム137を(夫の反対を押し切って)衛生局に持っていった彼女の存在がなければ、この事故はもっと深刻なものになっていたでしょう。もう一人、光る粉に最初から懐疑の目を向けたのも女性でした。放射能だと気づき激怒し絶望する、この映画の中でようやく私が理解できる行動を取ったのは、この、放射能の存在を知る母親でした。直感的に異変に気づく能力や、おかしいことをおかしいと認識する能力、それを裏付ける知識というのが大事なのだと思いました。フクシマ後、放射能が身近になった私たちにとっても、それは言えることではないでしょうか。(KIKI)

参考
・Césio 137. O Pesadelo de Goiânia ブラジル(1989), 95 min, 監督: Roberto Pires
・「終焉に向かう原子力」(第10回)放射線被曝事故の悲惨さと避ける道(小出 裕章)」
http://chikyuza.net/n/archives/5043
・日常生活の中で起きた放射能事故についてはここの書き出しも参考になります
http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-927.html

Endstation Krasnokamensk

先日、ロシアのウラン採掘場のある街についての映画
Endstation Krasnokamensk. Ein Heimatbesuch (Final Destination Krasnokamensk. A Visit Home)
を見ました。
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クラスノカーメンスクは、中国とモンゴルの国境の近くにある人口5万5千人ほどのロシアの街です。1963年にこの街の近くでウランが発見され、1969年に街ができました。延々とステップが広がる「なんにもない」ところに、ウランを採掘するために作られたこの街では、毎年3000トンのウランが採掘され、それはロシア全土のウラン生産の90%を、世界レベルでみると約10%を占めているそうです。

「地の果て」にあるウラン採掘の街には刑務所もあり、数年前にそこにロシアの大物実業家が収監されたことで注目を浴びましたが、メディアにおけるこの街の描写というのは惨憺たるものです。
この映画の監督の一人であるオルガさんは、16歳の時にこの街を離れてドイツに移住しました。クラスノカーメンスクで子供時代を過ごした彼女にとって、自分の記憶にある街と、メディアで取り上げられる街には大きな隔たりがありました。実際にクラスノカーメンスクとはどんなところなのかという彼女の問いに加え、そこで暮らしているであろう、会った事のない彼女の父親を探すというのが、この映画のストーリーです。

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かつては地図にも載せられず、訪れるには特別な許可が必要だった街、クラスノカーメンスク。
どんなに物々しいところだろうか?
放射能の影響はどれほど深刻なのだろうか?
住民はどんな犠牲を強いられているのか?
そもそもそんなところで撮影をして大丈夫なのか?
そういう思いでこの映画を見ると、カメラに映し出される人々の明るさ、素朴さ、そして無邪気ともいえる雰囲気にびっくりするでしょう。街の成立40周年のお祭りに沸く街に、放射能汚染の影をみつけることはできません。
40年前に作られたであろう団地が立ち並ぶ町並みは、私の感覚では美しいとはいえないのだけれど、インタビューを受ける人々は口々に彼らの故郷の美しさと「普通さ」を強調します。ウソをついているのではなく、故郷に対する愛着と誇りから本心で言っているのでしょう。ドイツからはるばる戻ってきたオルガさんは人々に暖かく迎えられ、カメラを向けられた人はみな、それぞれの言葉でクラスノカーメンスクを語ります。

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「放射能の影響はないんですか」という問いをオルガさんは至るところで発するのですが、人々はいたって無頓着です。全然大丈夫だと言い張る行政側だけでなく、一般の住民からウラン鉱山で働く労働者まで、誰も深刻に考えていません。「ウォッカを飲めば大丈夫だとどこぞの教授が言っていた」だの、「どのみち死ぬんだからいいんじゃないか」だの、「汚染された石や服を家にもって帰るわけじゃないから平気だ」だの言う人がいる一方で、「気にはなるが、だからといってどうすることもできない」というのが大方の意見のようだと思いました。
「気にはなる」という程度で留まっているのは、言うまでもなく、クラスノカーメンスクの人々が放射能に関する知識とそれに対応するための十分な情報を持ち合わせていないからです。
行政側が根拠にする統計では、放射能による明らかな健康被害を証明することはできません。
病院は先天性異常や流産に関して「そういうこともあるけれど、それはタバコやお酒の問題なのだと思う」という返事をします。体調が悪いと言う人も、それを放射能のせいだとは断言しません。
事故で亡くなれば本人が悪いということになり、働けなくなってもちゃんとした補償はされません。
一方で、若くして亡くなった人の話や、肺の検査をうけるように勧める通達が貼られていたりと、そこここに放射能の被害が現実にあるのではないかと思わせる部分があります。

実際にウラン採掘に関わっている人々はというと、彼らの関心は放射能ではなく、労働条件です。
ソ連時代は非常に優遇されていた労働者が、今では生活の基盤すら脅かされる程度の賃金しか与えられず、彼らいわく「奴隷のような」労働に駆り出されているのです。昔からウラン採掘に関わってきた人々にとって、正体のつかめない放射能より、日々の生活に直接響く労働条件のほうが深刻なのです。
かつて国の根幹をささえているのだという誇りを持って働き、それに見合った待遇を受けていた人々が、今では私有化された企業の末端で使い捨てにされている。その現実に労働者は憤っても、ウラン採掘そのものを問題視することはありません。

「どうしようもない。」これがクラスノカーメンスクの人々の放射能に対する認識なのだと思います。労働条件の悪さを訴えれば「嫌なら辞めてください」と言われるだけ。クラスノカーメンスクを出ようにも、どこへ行って何をして暮らせばいいのか。人々はその閉塞感の中で、「今までどおり」に暮らしているのです。

映画が終わってから、監督の二人を前に質疑応答がありました。
ジャーナリストの女性が、「なぜもっとちゃんと調査しなかったのか、問題だと思う」という意見を述べ、面白い議論が起こりました。「これはロードムービーであって、ジャーナリズムの作品ではない。厳密な調査をするとなれば全く違う作品になっていただろう。クラスノカーメンスクのいろいろな立場の人に話をきけたが、ひとつの結果を出そうという意図はない」というのが監督2人の答えでした。
もう一人のジャーナリストの女性が「こういうテーマを扱うのに無責任なのではないか」というようなことも言いましたが、それは会場からもブーイング。私も、この映画が「ひとつの真実」を追求するのではなく、クラスノカーメンスクに存在する「たくさんの事実」を描き出したことを評価したいと思います。
原子力産業は、ウラン採掘から放射性廃棄物の処理に至るまで、多くの人々の生活と結びついたものです。それは、日本でも言えることではないでしょうか。原発をやめるとなったら、今までそれに依存してた自治体や人々の生活はどうなるのか。地域の誇りだった産業が悪と断罪された時、人々はその故郷とどう向き合えばいいのか。

質疑応答のあとで、もう一人の監督であるマリアンネさんと話をしました。はじめてクラスノカーメンスクに行ったのが2009年で、映画が出来上がったのが2012年ということで、その間に起きたフクシマの影響はあったのかと聞くと、全然なかった、との返事。「心配する声があったとすれば、それは原発が減ることで彼らの仕事が無くなるのではないかという事だ」という話を聞いて、なるほどと思いました。そこにウラン採掘を環境や健康の問題として考える私たちと、生活の糧としてとらえるクラスノカーメンスクの人々との決定的な立場の違いを読み取ることができるでしょう。

低予算の映画なので、大きな映画館で定期的に上映されることはないと思いますが、(ロシア語のインタビューにドイツ語のナレーションと字幕なので)ドイツ語かロシア語が堪能な人にはオススメです。(文責:KIKI)

参考
Endstation Krasnokamensk. Ein Heimatbesuch. Ein Dukumentarfilm von Marianne Kapfer & Olga Delane. 87min (2013)
トレイラー(英語):https://www.youtube.com/watch?v=dgjJF0sz_Bw
写真はフェイスブックからお借りしました。