福島県教育委員会作成放射線教育用学習ビデオ教材についての勉強会 (3)

「科学的」と「安全」について

この他の学年用のビデオでは「科学的」という言葉もあった。科学的に測るとか,あるいは科学的に安全というようなことも良く言われる。しかし,私にはそのビデオで言っている「科学的」の意味がわからない。なぜわからないのかを説明しよう。まず,私の考える科学的についてちょっと説明する。

科学的ということに関しては様々な解釈があるだろう。私が思う科学的とは,「世界を観察し,繰り返し観察される共通となるような真実をもとに,その観察される現象をより理解可能な要素に分解し,それを論理的に組みたて,理解のための仮説を提案し,実験により確認して,世界の理解をすすめていく方法」と言ってみようと思う。しかし,これではかなり難しくなってしまった。これも何を言っているのかわからないということになりかねない。そこで,一つ例の話をしよう。それからまた戻って考えてみて欲しい。でもこれは私の考えでしかないことにも注意して欲しい。(ただし,ここにあるものとかなりの部分は共通している)

「食べ物は胃で消化されるのに,どうして胃は溶けてしまわないのだろうか?」という話を私の言う意味で科学的に考えてみる。ここでは胃で食べ物が消化されるということはわかっているとする。それは観察されることで,この議論に加わる人達は皆共通の真実と考えたとしよう。そこで,この議論に加わっていたロッコさん(仮名)が仮説を言ったとしよう「胃は消化されないものからできている」この仮説は食べ物は消化されるが,胃が消化されないということをモデルにする考えだ。とてもいいと思う。では,これを確かめられるか? ひとし(仮名)さんが「中華料理には胃の料理がある」ことに気がついた。では,皆でそれを食べて実験してみよう。そうしたら,ひとしさんなど複数の人が次の日にトイレに行って,胃の料理が消化されたことを確認した。つまり,胃そのものは消化される。これでロッコさんの仮説は棄却されてしまった。そこで他の仮説を考えてこれが説明できないかを考える。人間の胃袋は動物とは違うという仮説も可能であるが,そうすると動物の胃袋は動物自身に消化されないことの説明ができないので仮説としては(世界の現象を理解するすすめにならないので)あまり意味がない。

これが私の言う科学的方法というものだ。観察し,それがなぜかを考えて仮説をたて,仮説に基いて検証し,間違いならさらに仮説をたて,現象への理解を深めていくことだ。この例では,問題を分解するなどなどはしなかったので,「世界を観察し (胃が消化されない),…,理解のための仮説を提案し(胃は消化させないものでできている),実験により確認して(胃袋の料理を食べ,トイレに行く),世界の理解をすすめていく方法」ということになる。この話ではまだ「食べ物は胃で消化されるのに,どうして胃は溶けてしまわないのだろうか?」の結論はでていない。科学的方法自体には結論がでていないものも多いから,ここでは結論は出さなかった。私の言う科学的とはプロセスであって,科学的とは何かがわかっていることとも違うこともわかって欲しいからだ。

「科学的に放射線を測る」ということがこのビデオで出てきた。特に中学年用の 7:35 秒は衝撃だった。「では,どうしてこのように放射線の量がわかるのでしょうか? それは,放射線は測ることができるからです。」である。これはトートロジーである。広辞苑には「トートロジー,同語反復: 定義する言葉が定義さるべきものを言葉通り繰り返す定義上の虚偽。」と説明されている。

「なぜ今日はあたたかいのでしょうか? それはあたたかいからです。」「車はどうして走ることができるのですか? それは車だからです。」これらは理由の説明になっていない。どうして? の解答ではない。「なぜ放射線は測れるのか? それは測れるからです。」これが放射線についての理解を深める教材ビデオのした説明である。これを科学的と言うことには衝撃を受けた。このどこに科学があるのだろうか。科学的理解とは観察し仮説をたて実験して検証するプロセスを通して世界を理解していくことだ。どうして放射線は測れるのか? に対し,例えば,歴史的な経緯で,蛍光版が反応していることに気がついたとか,感光板が感光してしまうことに気がついて存在がわかってきた,とか,そういうことは言えなかったのだろうか。。霧箱が本当に放射線を可視化しているのなら,どうして霧箱周辺を放射線計測器で測って対応を見せなかったのだろうか? 霧箱が測定できる放射線と,γ線の測定器の測れる放射線が違うからか? しかし先生は,「このように身の回りにあって測れる」と言ったではないか。なぜそれを科学的に証明しようとしないのか。ところで,
霧箱を作っている会社のページにはこの霧箱は自然の放射線を見せているのではなくて,霧箱内部に置いたラドンなどの核種を見せています。とある。この製品はガラスと金属に覆われているので,α線やβ線は入ってこれないからです。とある。確かに先生は,α線は紙でも止まりβ線はアルミニウムなどの板でも止まると言った。説明はおかしくないだろうかと確認すると,「普通の生活では見えない放射線も霧箱の中では観察できる。このように身の周りに放射線があるのです。」と説明している。これはどういうことなのだろう?

私はこのビデオの「科学的」に「科学」を見ることができない。だからここで言う科学的の意味がわからない。ファインマンという物理学者がこういう説明を批判して,何もわからないのなら,どんな名前でも同じじゃないか。と言う話がある。それはエネルギーの話だったが,ここでも同じことができるだろう。放射線のお話とは言わなくてもいい。ヨダソウのお話とでも言えばいい。ピッと音がなるたびに,ヨダソウが通った。科学の力でヨダソウの存在が測定できるのです。すばらしいですね,ヨダソウ。

科学的と言う意味を考えずに,科学的というだけでそれが正しいの同義語などと考えるのはやめにしよう。理解しなければ,それはヨダソウにすぎない。「ヨダソウとは何か? ヨダソウのことだ。」では理解にはならない。

では,時々聞く「科学的に安全」とはどういうことなんだろうか。まずそこには何が「安全」なのかを知らないといけない。「安全」の意味は何か? 「安全」の定義とは何だろう。誰がそれを決めたのか?

以前,SNBのメンバーに何 mSv では安全とか科学的にわかっていないのか? という質問を受けた。私の定義での科学的に知るためには,前にいったように,安全とは何かを定義し,それを観察して,ある現象に対して仮説をたてて,それをまた検証しなくてはいけない。

たとえば,年齢別に 1万人の人を集め,半分の人達に放射線を浴びせ,もう半分の人達は放射線を浴びせずに,その違い以外は同じ生活をしてもらう。そしてその量と病気などの関係を長期間に渡って調べる。これによって科学的な実験ができる。しかし,それは倫理的にできるのか? 放射線は 100 mSv まで安全という人に,99 mSv を浴びる実験台になってもらうべきだという意見の人もいたが,そういう実験をするのは科学の前に人間として許されないという問題がある。そうすると科学的に実験によって危険性を確かめることはかなり難しくなる。

私はこういう危険なものの安全性を確かめながらおっかなびっくり使うよりも,そういう問題がそもそもないエネルギー源を使えばいいじゃないか。そういう技術はけっこうあるじゃないかと思っている。まあ,それには異論もあるだろう。でも避けられる危険なら避けたほうがいいと思う。我々にはそういう技術がある。

例として,ウクライナでの放射線の安全性というのは,人間が 100 mSv を越える放射線を浴びると危険であるという説に基づいている (アメリカ合衆国国立生物工学情報センター).  ここでは,These data provide clear evidence of radiation-induced cancer risk at doses above 100 mSv. とあり,「これらのデータから,100 mSv を越える線量を浴びた場合にはガンのリスクがあるというはっきりした証拠が提供される」とある。しかし,前回の「寄らば切る」の話のように,100 mSv 以下なら安全とはこの研究結果でも「言っていない」のだ。実は 100 mSv では危険は確実というこの同じ報告の中で, 10 mSv から 100 mSv でも危険があるかもしれないと言っている部分がある。しかし,10 – 100 mSv でも危険があるかもしれないという部分はほとんど聞くことはない。

そこでウクライナでは人間は 100 年位の寿命があるとして,1 mSv/yの場合,一生で 100 mSv だから,この基準にしようとした (ウクライナの事故への法的取り組み)。

日本で 20 mSv/y で帰還していいという人達は,もしもウクライナと同じ説に基づくなら,人はここには 5 年は住まないから大丈夫という「安全」を考えたのかもしれない。それならば何らかの理屈が見えてくる。20 mSv/y × 5 y = 100 mSv なので,これ以上の滞在は危険とわかっている。だからこれ以上は住まないように,という基準なのだろうか。ちょっと待って欲しい。前回の「寄らば切る」の話を思いだそう。ここから先は危険なのは確実としても,それ以下は安全とは「言っていない」。「安全」とは何かを知らないのなら,落とし穴に落ちることになるだろう。数値がどうかなんてのはこのように安全の定義を変化させればいくらでも操作できる。

つまり,少なくとも 2 つの説明が必要だ。1. 「安全」の定義は何か? 2. 「科学的」とはどのように調べ,どのような証拠が得られたのか。これについて定義がなく。説明がないのなら,それは私の言う科学的ではない。

「安全」とは何か。誰がどうやって決めたのか? たとえば,どこかが毒で汚染されていて,でもそれが安全という場合,安全というのはどういう意味か。それはその毒を摂取した場合,1 年は生きていられるという意味なのか? それとも 2 年は生きていられるという意味なのか? 100 人その毒を摂取したら,次の日には 3 人しか死ななかったので,97 % 安全です。などということもあるかもしれない。100 人のうち 3 人死んでいるが,97 % の生存率ならばすごい安全だ。そういう定義かもしれない。この場合,1ヶ月後には 100 人全員死亡しているかもしれない。それでも,1 日の生存率ならば嘘は言っていない。1ヶ月後,全員死亡しましたが,安全です。ということも,この定義ならば科学的にも論理的にも正しい。だから論理的とか科学的と言うことで「はいそうですか」というのはあまりにナイーブだ。私は怖い。100 人のうち 97 人が 1 ヶ月無事だから安全です。という意味の安全だったら,それを私は「安全」の定義として受けいれられるのか? 安全の意味を知らなければ,安全ですと言われただけでは何も意味がない。

そして,「科学的」とは何だろうか? どうやって検証されたのか。この場合,その毒を実際に多数の人間に摂取させてわかったのか? いったいどうやってわかったんだ? どこにエビデンスがあるんだ? 科学的の定義が違う人もいるかもしれないが,仮説をたて,実験をして理解を深めるという私の定義では,実験されないものは科学的ではない。特にたまたま一人で実験して大丈夫でしたというのは一回限りで再現性がないので科学的とは言い難い。まず,科学的と言う人に,あなたの言う「科学的」とはどういう意味なのか,私は尋ねざるを得ない。

だから私は新聞などで説明のない「科学的に安全」という言葉を見る度に,どういう意味なんだ。と考えてしまう。これは私にはあいまいな言葉で,ほとんど何も意味していない,非科学的な言葉だ。

今回の放射線のお話のビデオでは,多岐に渡って考えることが多かった。もっと多くの議論ができることと思う。私はできれば,このビデオを見た子ども達と一緒に考えていきたい。科学的とはどういうことか。メッセージは何だったのか。どうしてこのようなビデオができたのか。そして,このビデオを見せている先生には,子どもが社会に出て生きていけるように,自分で考えることについてぜひ少しヒントをあげて欲しい。この文章がそのヒントの 1 つになってくれると嬉しい。

現実は厳しいものだ。夢の中で生きていく方がいいかもしれないこともある。しかしそれができるのは一部の人達だけで,ほとんどの人達には現実は情け容赦なくふりかかってくる。現実を認識し,それに向かっていくときに考える方法が少しでも見え,それが子ども達の未来を少しともしてくれることを願う。そしてそれを子ども達と議論することが,大人としての責任ではないだろうかと思う。

根拠もなく,安全だ,大丈夫だ。僕達はすごいんだ。では子ども達を守れない世界にしてしまったことを,子ども達にすまなく思う。一番簡単なことは,誰かのせいにすることだ。しかし,それでは子ども達は守れない。でも,そのままで良いと私は思わない。

だからまずは知って考えていこうと思う。

今回の勉強会の講師は「廃炉のおはなし」と同じふくもと氏でした。ありがとうございます。
記録は私,ひとしでした。

最後に,「ヨダソウとは何か」ですが,後ろから読むとわかるかもしれません。本当です。ヨダソウ。

ひとし

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